熊本市議会 2021-03-15 令和 3年第 1回予算決算委員会-03月15日-02号
通常市債も臨財債も、こう言うと局長は、臨財債は国が後で面倒を見てくれるからと言われるのかもしれませんが、今日の朝、本市のホームページにアップされました庁舎建て替えの有識者ヒアリング議事録、12月23日のZoom(ズーム)会議のことですが、地方財政専門の関西学院大学、小西砂千夫教授が、「熊本市は、中核市から政令市になって、償還期間が長い公債費が出せるようになり行政運営がしやすくなったが、借金の元本は減
通常市債も臨財債も、こう言うと局長は、臨財債は国が後で面倒を見てくれるからと言われるのかもしれませんが、今日の朝、本市のホームページにアップされました庁舎建て替えの有識者ヒアリング議事録、12月23日のZoom(ズーム)会議のことですが、地方財政専門の関西学院大学、小西砂千夫教授が、「熊本市は、中核市から政令市になって、償還期間が長い公債費が出せるようになり行政運営がしやすくなったが、借金の元本は減
通常市債も臨財債も、こう言うと局長は、臨財債は国が後で面倒を見てくれるからと言われるのかもしれませんが、今日の朝、本市のホームページにアップされました庁舎建て替えの有識者ヒアリング議事録、12月23日のZoom(ズーム)会議のことですが、地方財政専門の関西学院大学、小西砂千夫教授が、「熊本市は、中核市から政令市になって、償還期間が長い公債費が出せるようになり行政運営がしやすくなったが、借金の元本は減
◎教育部長(宮田裕三君) 市の中心部を流れる船場川のうち,船場橋一帯は16世紀末頃にキリシタン大名小西行長による城下町整備に伴い,運河として整備されたと伝えられています。江戸時代になると,船場界隈には宇土細川藩領内から集められた年貢米を集積した蔵屋敷や船奉行の屋敷等が整備され,宇土における物流の拠点として大変にぎわいました。当時,数多くの船が様々な物資を載せて船場川を行き来した様子が想像できます。
平成になり取り組まれた宇土市の市史編さん作業から,大きく小西行長を見直される展開になっていて,とてもうれしい出来事です。そこで,初めに聞きたいのは,これまで天草四郎の歴史検証,明治以前のキリシタン関連の歴史検証について,どんな調査を研究してきたのか。また,小西行長関連のキリシタンに関する歴史検証についても報告をお願いします。教育部長お願いします。 ○議長(柴田正樹君) 教育部長,宮田裕三君。
当日は,スタート直後から汗ばむような晴天の中,参加された約160名の方々は,小西行長公にゆかりのある宇土城跡のほか,旧高月邸や轟水源など,宇土の歴史や文化にふれながら,約2時間半のウォーキングを堪能されました。 参加された皆様には,御家族や御友人と楽しみながら,心身の健康づくりに取り組んでいただけたのではないかと思っております。
市の中心部を流れる船場川は,16世紀末頃に,キリシタン大名小西行長の宇土城築城と城下町整備に伴い整備されたと伝えられています。江戸時代になると,船場界隈には宇土細川藩蔵屋敷や船手奉行屋敷が置かれるなど,宇土における物流の拠点として大変にぎわいました。 現在も,江戸時代の船着場跡や宇土特産の馬門石が使われた船場橋,現役上水道では日本最古である轟泉水道の最終井戸など,貴重な文化財が残されています。
内容といたしましては、平成31年1月20日午前3時ごろ、市道築山小西築地線におきまして、折れた木の枝が、相手方が運転します乗用車に落下し、左サイドミラーを破損させたものでございます。 相手方への損害賠償額としまして、市は100%に当たる3万7,000円を支払うものでございます。 なお、損害賠償金につきましては、全国市長会の学校災害賠償補償保険から全額給付されます。 以上でございます。
麦島城は、1588年に豊臣秀吉の命により小西行長が築いた城で、城全体を石垣で囲い、天守などを設けた、近世城郭の祖先に当たる織豊系城郭と呼ばれる城です。この麦島城跡の石垣は、九州最古のものと評価されております。 麦島城は、1615年の元和の一国一城令で特例として残され、熊本城とともに、肥後熊本藩の一国二城体制を支える重要な城でした。
この大太鼓収蔵館,轟水源から市の中心部につながる轟泉水道,このルートには小西行長公がつくった宇土城跡もあります。市の中心部には熊本県内では最も古いといわれる高月邸の武家屋敷もあります。今,修理が行われております。轟泉水道の最終の井戸がある船場橋界隈など多くの文化財,史跡,建物があります。武家屋敷の高月邸にも轟泉水道の井戸があり,いつでも利用できる状態にあります。
宇土地区には,市内7地区の中でも特に史跡や建造物等の文化遺産が豊富に分布しており,その中心部である宇土市街地は,キリシタン大名,小西行長公が近世宇土城の築城に伴い,整備した町割りを基盤としています。江戸時代には,現在の教育委員会付近にあった宇土細川藩の陣屋を中心として武家屋敷や町屋敷が整然と配置されていました。
果たして宇土市へ韓国からの観光客は何を見に,知りに体験しに来るか,私は今,見当がつきませんが,ここ10年,市の取組のおかげで小西行長の城があった宇土,さらにヨーロッパでは小西行長の歌劇も亡くなってから数年で上演されたことを知りました。宇土は,いつの時代を海外へ紹介するのが良いのか,考えないといけないと思います。
戦国時代末期、八代を訪れた豊臣秀吉は徳渕と一体化した城下町構想を抱き、小西行長は海岸沿いに新しい城下町である麦島城を建設します。そして、江戸幕府は一国一城令を発令するも、薩摩対策と異国船警備の防衛拠点として特別に八代城の存続を決定、3代目の八代城となる松江城もやはり港湾である徳渕に隣接して建設されました。
戦国時代末期、島津征伐のために八代を訪れた豊臣秀吉は、徳渕と一体化した城下町建設構想を抱き、その命を受けた小西行長は、海岸沿いに新しい八代城──麦島城を建設します。そして、元和元年1615年、江戸幕府は、一国一城令を発令するも、薩摩対策と異国船警備の防衛拠点として、特別に八代城の存続を決定。元和8年1622年に完成した3代目八代城──松江城も、やはり港湾徳渕に隣接して建設されました。
まず、水俣は豊臣政権のもとでは、薩摩との境目ではなく、薩摩侵攻を目的とした豊臣家の直轄地であり、その後、小西行長領になり、水俣城の改修が行われたと指摘されています。ただ、行長の城については各地でも調査が進んでいないため、仮説としながらも水俣城で石垣の角の加工法に2種類あることが確認されたことは、行長と清正のそれぞれの意匠が反映した珍しい事例ではないかと考察されています。
市の広報においても,昭和28年3月には上羽勝衛,昭和40年代には武藤玉仙,小畑惟清,嘉悦儀三郎など16回の連載,昭和50年代には小西行長,細川行孝,細川興文,不知火諾右衛門なども紹介されています。
先日、保守系女性議員の全国政策研究会が、自民党の党本部であり、それに参加した際、株式会社小西美術工藝社社長、デービット・アトキンソンさんの講話を聞く機会がありました。彼のテーマは、日本観光の可能性についてでした。日本国内の地方というものは、人口とGDPに左右されており、人口増加には限界があるので、今後は交流人口をふやし、これを利用するしかないと言っておりました。
その間には,小西行長が築いた宇土城城山,国指定史跡の宇土城西岡台,古い歴史を持つ西岡神社,考古学分野で著名な轟貝塚,轟に入りますと日本唯一の大太鼓収蔵館,静寂スポットであります轟御殿などもあります。また,少し足を延ばせば,最近地元で非常に力を入れて整備をされておられます不知火諾右衛門のお墓や栗崎の天神楠,あるいはつつじヶ丘の野菜公園もございます。
小西行長公をマスコットキャラクターとして,平成23年に誕生しました「うとん行長しゃん」を,平成25年度からはキャラバン隊を組織し,ゆるキャラPR事業に取組んでいます。この事業は,キャラバン隊による市のPRを行うとともに,イラストを市民や事業者等に利用していただくことで市の知名度向上を図っているものです。
翌年、肥後の北は加藤清正、南は小西行長の領地に二分されますが、葦北郡は佐敷が清正の飛び地、水俣地域は直轄地という状況になります。1593年には薩摩の出水地域が直轄地になり、水俣地域とともに佐賀の唐津城主の寺澤氏に任され、5年後には寺澤氏の領地となります。この年、秀吉の死去、朝鮮出兵からの諸大名の帰国を契機に情勢が変わり、出水地域は島津領、水俣地域は小西領に編入されました。
本市を代表する観光資源といたしまして,日本渚百選と夕日百選に選ばれました御輿来海岸,現存する日本最古の水道管がある轟泉水道,日本名水百選に選ばれた轟水源,江戸時代からの雨乞い太鼓26基が一堂に収蔵されている大太鼓収蔵館や豊臣秀吉の家臣として名高いキリシタン大名の小西行長,また,特産品では,宮内庁献上品にもなった網田ネーブルや日本有数の浅瀬を誇る有明海で獲れるアサリや養殖される海苔が有名です。